心理学連邦
ウィーン生まれのユダヤ系心理学者。
18歳でウィーン大学に入学して医学を学び、その後眼科医として開業した。

アドラーはフロイトの重視するリビドーやエディプス・コンプレックスに反対して個人心理学協会をつくった。
アドラーとその支持者達は公立学校にカウンセリングを受ける事が出来る児童指導センターを設けて教育の分野で貢献した。
ユダヤ人に対する迫害の影響でウィーンを去った後は、アメリカを中心に活動した。
67歳の時にスコットランドで死去。

アドラーが体験したくる病、二度の交通事故、敵対する兄との関係などがその後の劣等感や目標を重視する考えの端緒となった。
ドイツ生まれの精神分析家。
ギムナジウムを卒業した後、美術学校に入学する。
1933年ウィーン精神分析協会の会員になる、同時期にヨーロッパに対等するファシズムを嫌って渡米した。
1936年エール大学でで職を得る。

1950年「幼児期と社会」が刊行された。
1960年ハーバード大学の教授になる。
スイス生まれの精神科医、分析心理学者。
1900年バーゼル大学で医学を修める。

1904年精神病クリニックで精神病診断のための言語連想検査を行う。
1944年〜55年までバーゼル大学教授を務める。
69歳の時心筋梗塞で倒れる。
1961年6月6日死去。
ドイツのハンブルク生まれの精神医学者、精神分析学者。
21歳で医学を学ぶためベルリンに渡り1911年に医学博士号を取得、同時期に弁護士オスカー・ホーナイと結婚した。
1920年頃からベルリン精神分析研究所の分析医として活動した。

1932年にアメリカへ渡りシカゴ精神分析研究所の准理事を務めた。
1934年ニューヨークへ移りニューヨーク精神分析協会に身を置き、臨床分析医として活動した。
フロイトが神経症の原因として重視した性的な葛藤やリビドーと攻撃本能の対立に対して批判を行った。
1941年ニューヨーク精神分析協会はホーナイを除名した。
ジグムント・フロイト 1856年ー1939年
当時のオーストリア領チェコスロバキアで毛織物商人の父ヤーコブと母アマーリアの間に生まれたユダヤ人の精神分析学者。

ウィーンに移住し1873年ウィーン大学に入学後、やつめうなぎの脊髄神経細胞やザリガニの神経細胞の研究を行ったり、J・Sミルやプラトンに関する研究の論文をドイツ語に
翻訳した、1881年25歳の時医学部の最終試験に合格、学位を得、ウィーン大学卒業。

29歳の時、精神病院サルペトリエールでシャルコーに師事する、30歳の時ウィーンで医師として開業。

1895年ブロイアーとの共著「ヒステリー研究」、1895年「ノイローゼの病因における性」を発表。

1908年フロイト、ブロイラー、ユングなどが集まり「国際精神分析学大会」を開催するが、
1911年にブロイラーとアドラーが協会を脱退、1914年にはユングが協会を脱退している。


1923年ロマン・ロランとの文通が始まる、「自我とエスを発表」
1938年サルバドール・ダリがフロイトのもとを訪れてフロイトを描く。

1939年9月23日死去

フロイト家の日常生活
by 石光 泰夫, 石光 輝子, デトレフ・ベルテルセン
平凡社 (1991/02)

単行本
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「フロイト家の日常生活」のレビュー

フロイト一家の生活を53年間仕えた家政婦パウラ・フィヒトルの証言によって明らかにしている。
フロイトの自著からは窺い知る事のできないフロイトの素顔が少しではあるが知る事ができる点が興味深い。
シャーロック・ホームズの推理小説が好きで大変な速読であったというのはフロイトらしいエピソードだが精神分析の技法が活用されにくいため電話を毛嫌いしていたという意外な一面も紹介されている(フロイトの名刺には電話番号が無い)。

晩年のフロイトと娘アンナを知る上で貴重な資料であるだけでなく歴史に名を残す精神分析学者に仕えながらファシズムが台頭する時代を生きた波乱万丈なパウラの人生はノンフィクションとしての価値を十分に具えている。
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