ハンス・ヨナスはドイツ生まれのユダヤ人で、後に米国に亡命。
ハイデッガーに師事し、グノーシス教の研究で知られる。

願望よりも最悪の事態を想定する
科学技術が発展する前は、人間の行動が、遠い未来に影響を及ぼすことは多くなかった。
しかし、人間が自然に対して、強い影響力を行使するようになると、当座の利益を最大限にすることよりも、自然に対して回復不能な損害を与えないことが求められる。
願望よりも最悪の事態を想定することを、ヨナスは「恐れに基づく発見術」と呼び、環境破壊や政治、経済に適用している。
これは、ベンサムのいう「最大多数の最大幸福」とは逆の考え方である。
「豊かな国から貧しい国への経済的賠償を強要するために、新しい形の国際テロが、責任国をはっきり示さないまま起こるかもしれない」
(p312より引用)

未来倫理
未来倫理は上で述べた事と関連するが、未来について予想し、未来に対して責任を持つという事である。
このような考え方から、最悪の事態を回避するとか、考える責任や知る責任が生じる。
「遠く離れた未来にとっての善(良さ)や必要なものについて、小数の者たちが何かを知っていても、この知が多くの者たちの行為にどんな影響を与えることができるのか。これに答えるのは、近接する未来についての当該の知の場合よりも、ずっと難しい。だが、こうした知が与える影響こそが、結局はすべてを左右する。」
(p47より引用)
ただし、ヨナスは過去から学ぶことを否定していないし、未来を予想することは困難であるとも言っている。
また、未来倫理では、まだ存在していない他者が権利を主張することができないために、相互性は要求されないとしている。

乳児と存在当為
ヨナスは乳児を世話するということが、責任の原型であるとして重視している。
「赤ん坊が息をしているだけで、否応なく「世話をせよ」という一つの「べし」が周囲に向けられる。」
(p223より引用)
赤ん坊は世話をしなければ、生きていかれないという緊急性(現実性)があるために、世話をするという責任が発生する。
また、緊急性以外では、「連続性」という要素も赤ん坊は持っている。
つまり、赤ん坊の世話をためらうとか、途中でやめるということは許されないということである。
なぜこれが責任の原型なのか、上で述べたことが、それ以外の場面でも適用されるということもあるが、ヨナスによれば、人間は元々赤ん坊を世話するようにできているというような説明をしている。
「目に見える仕方で他者にとっての当為を内在している」
(p223より引用)としているから、赤ん坊の外見のことをいっているようでもあるが、母性本能のようなものを想定しているような箇所もあり、難解である。
また、ハンマーのような人工物から製作者の目的を知ることができるとか、主観(意識)に先立って目的が存在するという、ヨナスの考え方も考慮する必要があるかもしれない。
ノーマンのいう広義のアフォーダンスと似ているが、ヨナスは興味や同情、哀れみなどの感情や赤ん坊に対する知識を問題としていないため、厳密に言えば違う。
また、ここでヨナスがいう当為はそうならざるを得ないという意味であって、そうすべきだという意味ではない。
法的に赤ん坊を保護すべしという責任が課される場合もあるが、ヨナスはそのような事をいっているのではない。

エネルギー問題と環境破壊
減り続ける石油や、大量に消費されるエネルギーに伴って排出される熱、食糧危機について述べている。
科学技術が進歩しても、それを受け入れる自然の側に限界があり、安全面の問題もあるため、エネルギー消費を抑えざるを得ないとしている。
ただし、リスクについて勘案し節度をもって利用するべきとしながらも、原子力発電を肯定していることからわかるように、単なる自然回帰を説いているわけではない。
「今日の地球人口を考えれば、昔の状況にただ逆戻りするなどということは論外である。」
(p313より引用)

感想と解説
この本を一読して気がつくのは、ヨナスが責任について明確な定義を与えていないことである。
だが、定義を与えることが出来なかったのではなくて、あえて定義を与えなかったとみるほうが自然だろう。
もし、責任が単に、他人が自分の欲望や無思慮を戒めたり、それに罰を与えること(司法制度など)だと定義してみた所で、それは責任の一部分を捉えたに過ぎないのである。
<主体と客体>
責任には、二つの側面があって、一方は責任(義務)を負う側、もう一方は責任の対象となる側である。
責任の主体には、知るための知性やある行為を行うための能力と、責任の客体に向けられる様々な感情や本能が求められる。
客体には、全体性、連続性、未来、未熟さ(緊急性、傷つきやすさ)などの特徴を持っている。
したがって、司法制度のように強制的に誰かに義務を課す種類の責任は、それを担う側(国会議員、裁判官など)にとっては、合理的な法体系を作るとか、先入見の無い科学的な裁判を行うなどの責任が発生するが、責任の対象となる側では責任は発生しない(犯罪行為の責任ではなく、犯罪を取り締まることについてはという意味)。
このような事情があるために、単一の条件だけで責任を定義することができないのである。
<責任は全体主義的か>
責任というのは、他者との相互依存的な関係の中で、誰かに迷惑をかけたからどれくらいの責任があるといわれるように、ある意味では全体主義の産物である。
だが、ヨナスの場合は単純な全体主義とは違う。
これは、未来倫理や名誉の死、条件付きの自殺を肯定している点、自分ひとりがリスクを負うことは良いが、人類全体を賭金としてはならないという点について該当する。
また、ヨナスは子を世話することが、責任の原型であると言った。
これは個人が赤ん坊と対面してはじめて生じる直接的な責任であって、多数の人間に強制されたり、誰かの顔色を窺って生じるような責任ではない。
つまり、ヨナスのいう責任は、個人から全体へと敷衍されるようにして責任の原理が適用されるのである。
これを人類と自然に置き換えれば、人類に搾取される自然は、赤ん坊と同じとは言わないまでも、何らかの保護を必要としているとい考えることができる。
しかし、一方では、
「共存こそが実態的な善、それ自身から義務づけが生じてくる善である。」
(p169より引用)ともいっている。
<ヨナスの責任の原理は実行性があるか>
赤ん坊に対する責任のような、ある意味では本能的(ヨナスは便宜上、感情と呼んでいる)な責任は、そもそも責任など何も感じないという人にとっては、何の拘束力も持たないという批判があるかもしれない。
だが、ヨナスは原理(基本的な事)について述べているのだから、具体的な技法が紹介されていないといって批判するのは不適当であるし、拘束力を持つような集団から個人に向けられる責任(法的責任など)であっても、根本的には、個人の責任感から派生したものといわざるを得ない。
人殺しを取り締まる法律や、弱者を保護する法律(保護責任者遺棄罪など)が存続し続けるのは、個人の感情に訴えかけるものだからである。
ヨナスは赤ん坊の例のように、今ここでの感じ方や判断というものを重視する実存主義的な立場から、それが責任の原型であるとしているのだから、あくまでも、根本的には個人に責任が存するという解釈が正しいのではないだろうか。
ヨナスは、赤ん坊の例では、責任の拠り所について説明しているのであって、手段(社会的なシステム)について言及しているのではない。
法律や「恐れに基づく発見術」、などは手段であって、責任の源泉とはいえない。
実効性が無いという批判は、責任を何かの手段や目的と混同しているか、主体と客体を誤って逆転しているために起こるのである。
<まとめ>
責任を個人や集団、政治、経済などの場面で、考察する包括的な内容で、バランスが良い。
また、原理という性質上、ヨナスの説明は抽象的で難解な側面もあるが、寧ろ、抽象的だから、様々な場面に責任の原理が適用できるのだとも言える。
この記事に関連する本(同意がある場合の障害は、罰するべきか等の責任に関するトピックを含む)