著者のレストン・ヘイヴンズは、1924年米国に生まれ、1982年よりハーバード大学医学部ケンブリッジ病院精神科教授となる。
この本では治療のために行われるカウンセリングでの言葉の使い方について述べられている。

3つに分類される言葉の使い方
「共感のことば」は、精神的に接点を持ちにくい患者に、接近するための言葉である。
セラピストは侵入的にならないように共感的な言葉を使うことが求められる。
たとえば、「なんてひどい!」(p63より引用)とか、「誰も分かってくれないんですね」(p80より引用)などである。
それに対して「対人関係のことば」は、患者との距離を保つために使われる。
治療の場ではセラピストが、影響力を行使し過ぎたり、逆に精神病質の患者にセラピストが影響されてしまうとか、患者が過度にセラピストに期待しないようにする必要がある。
「行為のことば」は、一種の自己成就的予言のようなもので、セラピストによって患者の精神状態が好転するように促す言葉である。
「行為のことば」は単なる助言ではなくて、それとなく、患者を良い方向に持っていくような微妙な働きかけである。
たとえば、激しい自己批判を繰り返す患者に、よいタイミングで肯定的なことばをかけてあげれば、自然と自分を肯定できるようになるのである。

感想と解説
<患者と適度な距離を保つ>
ヘイヴンズの考え方や技法は、サリヴァンやフロイト、ロジャースなど多くの人物のやり方を混ぜたようなものといえる。
特にロジャースの来談者中心療法に似ていて、後述のロロ・メイをもっと非支持的に、且つ共感的にしたという感じである。
セラピストの微妙な言葉遣いによって、患者の状態が良くも悪くもなるということが、紹介されている事例からよくわかる。
カウンセリングでは、患者に共感することの大切さはよく強調されるが、一方でただ聞いてるだけで問題が解決しないともいわれる。
また、共感することが、寧ろ、一種の観察者効果のような効果を生じさせることもある。
つまり、患者は、フロイト派では性欲衝動や幼少期のトラウマ、サリバン派では対人関係の問題を訴え、薬物療法のみを行う精神科医のもとでは重い精神障害であると主張しがちである(もちろんすべてでは無いが)。
ヘイヴンズの場合はその点をよく考慮した技法となっていて、「共感のことば」で患者との距離を近づけながら、「対人関係のことば」で、うまく距離を保ち、「行為のことば」で患者の自発性を高めるのである。
このようにすれば、患者は素直に自分の悩みを訴えても構わないし、自立へと好転しても、やはり共感してもらえるという理想的な治療関係が作られる。
<誰が治療対象になるのか>
この本で紹介されている技法がどんな患者に対して有効なのか、どうもはっきりしない。
ヘイヴンズは、
統合失調症や人格障害など、かなり広い範囲を治療対象としているのである。
どんな症状がある場合に治療対象になるのか、それをどうやって判断するかはとても重要なことだが、それについてはあまり触れられていない(もっともこれはヘイヴンズに限らないが)。
サリバン、ロジャース、など多くの人物を参考にしているせいか、治療対象が広いのかもしれないが、治療対象に関して明確な基準があるわけではないようだ。
ただ、ヘイヴンズは治療対象を狭く限定することが、治療の妨げになると考えていたのかもしれない。
性格的な障害がほとんどない、治りやすい人だけが、治療対象なら、当然、患者はそういう人間を演じなければならないし、重い精神障害だけが、治療対象ならやはりそういう症状を助長する可能性があるのである。
治療対象が広ければ、症状の重い、軽いに関係なく、患者は自己開示しやすくなるはずである。
しかし、治療対象を広げることが、統合失調症の場合でも薬物療法を一切使わないことを意味するなら、それなりのリスクを伴う技法であるといえる。
<症状の原因と合目的性>
ヘイヴンズは、病因について器質的な障害や遺伝的な要素を考慮していない、というよりもそういう見方自体が、症状を助長すると考えているようである。
また、症状の原因も人間関係の悩みによって起きるとか、一種の防衛のために行われるとしている。
「狂っているから、そんなことをするんだ。このような言い分によって、彼は、自己の一部に対して責任をとることを否認し、社会的に受け入れられようとします。」
(p88より引用、ひきこもり状態にあって、怒りに囚われる青年について)。
昔から、精神分析では症状が、防衛機制によって起きると考えられがちであった。
妄想、抑うつ、リストカット、引きこもり、オーバードーズなど、いずれも誰かの気を引くためとか、逃避、退行であると解釈されてきた。
しかし、それらの行為だけが、防衛の手段というわけではないし、自分や他人に不利益が生じるのだから、道理に合わない現象だと解釈しなければならないのである。
だから、広い意味で病気であるとか、異常であるという尺度を用いずに、これらの症状を解釈するのは無理があるのではないか。
その他、妄想や幻覚と思われる症状の原因を精神的な葛藤に求めている部分があるので、そのような解釈はフロイト流の精神分析を信じている人でないと受け入れがたいのではないかと思う。
ヘイヴンズは症状に対してもっともらしく思える解釈を与えているのだが、やはり推測の域を出ないというべきだろう。
<まとめ>
単なる治療者としての心構えではなく、具体的な言葉の使い方を解説している点が特徴的である。
ただ、それほど体系的というわけではない。
ヘイヴンズは、あるときは、サリヴァンのように対人関係(家族関係)の問題を指摘したり、あるいはフロイトのように解釈を与える、また、テレンバッハのような実存的な分析をしてみせることもある。
これらが、治療的なものとなるためには、治療者の感受性とか言語能力や非言語的なコミュニケーションのうまさというものが求められる。
これらの著名な研究者のやり方をすべて駆使するというのは、ほとんど名人芸のようなもので、普通の治療者が真似できるとは思えない。
つまり、治療者の能力次第ということである。
再現性という点では、具体的な方法が確立されている行動療法に分があるようだ。
また、既に触れたことだが、薬物療法の有効性を殆ど度外視している点は注意が必要である。
この本は1938年に米国で初版が刊行され、後に出版された改訂版の日本語訳である。
神経症の治療や神経症の人の性格の分析などについて述べられている。

実存主義
ロロ・メイは米国の実存主義の心理学者として知られているが、この本を読む限りテレンバッハやフランクル、ヤスパースの実存主義とは違う点がある事がわかる。
メイは相談者の意思や自己決定を尊重しつつも、やはりフロイトのように治療者が分析をして解釈を与える事が治療に寄与するという立場である。
これはフランクルのロゴセラピーやフロイトの精神分析に懐疑的であったヤスパースの見方とは違う。
メイがフロイトほどには精神分析のやり方を徹底していない事は次の言葉から明らかである。
「カウンセラーは”これはこうである”と断定するのではなく、むしろ、”これはこのようです”とか”これは、これと関係があるようです”という。」(p125第6章告白と解釈より引用)

環境と素質
メイは環境からの影響を認めながらも神経症の症状が、多くの部分でその人自身の性格に起因すると考えている。
確かにうまくやれば自分の考え方次第で症状を消失させたり緩和することができるのかもしれない。
しかし、そもそも神経症であるかそうでないかを判断する事は簡単ではないのだが、それについては殆ど触れられていない。
しかも現在では神経症という原因を想定した診断名を使う事は少なく、過去に神経症で一括りにされていたであろう症状の中に器質的な異常を示唆するものが存在する。
たとえば、かつて不安神経症と呼ばれていたパニック障害では薬物療法が行われ、一定の効果がある事は知られている。

まとめ
ロロ・メイの分析は的を射ている部分も多い。
しかし、この本に書かれている解釈をそのまま適用するのは危険であるように思える。
特にクライアント自身の性格が原因で病気になったとするカウンセラーのもとにクライアントが進んで相談に来るのか疑問であるし、神経症の症状に合目的性を認めているが具体的な根拠を示していない。
さらに付け加えれば、症状が性格から生じていると推測する事は実存主義的とはいい難く、自分がそう思うからそうなのだというようなエッセイ的な文章を心理学と呼んでよいかは議論されるべきだろう。
「快活さや、他の人たちとの交わりの中でくつろぐ能力や、共感する能力や、原因探求に等しく野心的である特徴などである。」
(p145良きカウンセラーとしての資質より引用)
これ以外に精神分析に批判的な本も併せて参照したほうがよい。