心理学連邦

記憶はどこに蓄えられるのか/ 記憶痕跡とフロイトの不思議なメモ帳

物質化される記憶

古代ギリシャの時代の記憶のメカニズムは、プネウマ(空気や息という意味)や動物精気という空想上の物質が重要な役割を担っていた。
プネウマが感覚的印象を身体の中に運び、それが心臓に運ばれると記憶となる。
さらに強い印象を持つ感覚は、脳に運ばれるとされた。
動物精気はプネウマと同様に身体の中に運ばれる揮発性の物質であるが、プネウマと違い感覚的印象を運ぶのではなくて、還元され、物質化された記憶そのものである。
この動物精気は脳の空洞や心室に蓄えられると考えられた。
動物精気の考え方においては、「空間に記憶が貯蔵される」という比喩と「記憶が何らかの物質に還元される」という比喩が用いられている。

アウグスティヌスは「告白」の中で記憶が巨大な倉庫のような場所に貯蔵されていると述べた。
その他、「鳥小屋」、「洞窟」の比喩も見られる。
古代ギリシャの時代から現在に至るまで、このような比喩はかなり一般的なものである。
例えば「詰め込み教育」という言葉は明らかに空間に記憶を貯蔵するという比喩を用いている。
また、心理学においても記憶(情報)を忘却することなく覚えておくことを保持や貯蔵と呼んでいて、実際に記憶が物質化されて身体内の空間に貯蔵されるわけではないのに、この比喩は違和感無く受け入れられている。

記憶が身体の内部に刻印されるとか、写し取られる、再現されるという考え方がある。
これは紙などに情報を書き入れるというのと同じような現象が、人間の体のなかで起きているという比喩である。
この比喩は上述した記憶の比喩とは異なり、記憶という情報そのものが物質化するのではなく、記憶を再現するために身体を変容させるということである。

フロイトは著書「夢解釈」のなかで、不思議のメモ帳について記し、記憶痕跡や潜在記憶に関する事柄に触れている。
不思議のメモ帳とは蝋の層の上にパラフィン紙、その上にはセルロイドをつけたメモ帳のことである。
セルロイドにメモをするとパラフィン紙に文字が現れる、パラフィン紙と蝋を引き離せば文字は見えなくなるが、蝋自体には文字の痕跡が残る。

イギリスの物理学者ロバート・フックは1682年6月21日に行った講演において、人間の記憶と燐光物質の関連について言及した。
ボローニャ石などは光(紫外線)を浴びると燐光を発する、フックは人間の記憶もこれと同じような現象であるとした。
これはフロイトの神秘的なメモ帳のような比喩ではなく、実際に脳内でこのような現象が起きているとフックは考えた。
フックによれば、眼球から送られた光が脳内にそのまま光として蓄えられるとされる。
しかし、現在はこのような現象があるとは信じられていない。

記憶痕跡
記憶痕跡は脳内の神経細胞同士が回路を作り、再びその回路に刺激が伝わると記憶が再生、再認される現象をいう(詳しくは別ページ を参照)。
これもフックの説と同様に、脳に記憶が蓄えられるという考え方だが、刺激そのものを蓄えるのではなく、飽く迄も脳内の神経細胞によって記憶が再現されるという点で違いがある。
記憶痕跡の説は、脳の機能が解明されるに従って徐々に信憑性を増してきているが、プラトンによる記憶と蝋引き書字板の比較の時点では単なる比喩でしかなかった。
しかし、具体的にどの部分に記憶痕跡が存在するのかについてははっきりしない。
米国の心理学者カール・スペンサー・ラシュレー(Karl.Lashley)はラットを使った実験で、記憶の分散貯蔵について示唆を与えた。
ラシュレーは先ずラットに迷路を覚えさせ、その後ラットの皮質の一部を取り除いた。
ラットは皮質を取り除かれた分だけ、迷路から抜け出すことが困難になった。
これは質量作用の法則(Law of Mass Action )と呼ばれるが、どの部分の皮質を取り除いても迷路の課題を達成する困難さには違いがないということも明らかになった(適切な低均作用、graceful degradation )。
この実験は記憶痕跡が本当に存在するのかという疑問を生じさせるものであった。

フロイトの不思議なメモ帳との比較

フロイトの神秘的なメモ帳も記憶が刻印され、どこかに保存されるという考え方であるが、脳内の神経細胞における記憶痕跡とでは、記憶が人間にとって操作可能なものかという点で異なる。
神秘的なメモ帳に何をメモするか、メモ帳の何を参照するかは書き手の意思に委ねられているが、記憶痕跡の場合はどこに記憶痕跡を構築し、どの記憶痕跡を刺激するかはメモ帳の時ほど能動的に行えるわけではない。
フロイトの神秘的なメモ帳は、我々が記憶をある程度までは能動的に操作(意識的に暗記したり思い出す)できることをうまく例えているが、「神秘的なメモ帳にメモしたということ」を覚えているのはなぜなのかという疑問が生じる。
一方、記憶痕跡は記憶する人の意思を喩えることに失敗しているが、記憶痕跡の存在を自覚していなくても記銘や想起が行われるという点では神秘的なメモ帳よりも優れた考え方であると言える。

(参考文献-記憶の比喩/ガル、ブローカ、ウェルニッケ) 記憶の比喩―心の概念に関する歴史
Douwe Draaisma Paul Vincent 岡田 圭二

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